金曜日の夜、仕事終わりの街は、いつもよりどこか浮き足立っていた。オフィス街のビル群からは、ネクタイを緩めたサラリーマンたちが次々と吐き出され、細い路地に軒を連ねる居酒屋へと吸い込まれていく。赤提灯の明かりは、週末の解放感を誘うように優しく滲んでいた。
中堅広告代理店に勤める佐藤は、同僚たちとともに予約していた居酒屋へと向かっていた。仕事で多少の行き違いはあったものの、この「飲み会」という習慣は、会社員生活を支える潤滑油のようなものだった。彼にとっても、それは決して嫌いではなかった。むしろ、人の本音がこぼれる瞬間を覗ける特別な時間でもある。
暖簾をくぐると、すでに大半の席は埋まっており、店内は活気に満ちていた。焼き鳥の香ばしい匂いと、ビールジョッキをぶつけ合う音。笑い声とタバコの煙が入り混じり、そこには昼間の堅苦しさを忘れさせる空気が広がっていた。
「お疲れさまでしたー!」
最初に声を張り上げたのは、後輩の村上だった。まだ二年目の彼は、明るく人懐っこい性格で、場を盛り上げるのが得意だ。
「おう、村上、声がでかい!」と誰かが突っ込みを入れる。自然と笑いが広がり、乾杯の準備が整っていく。
ジョッキにビールが注がれる音が、心地よく耳に響く。部長がグラスを掲げると、全員がそれに倣った。
「じゃあ、みんな今週もお疲れ!来週も頑張ろう。乾杯!」
「乾杯!」
一斉にジョッキがぶつかり合い、黄金色の泡が少しこぼれ落ちる。最初のひと口が喉を潤すと、それだけで体中の緊張が解きほぐされていくようだった。
料理が運ばれてくると、会話の花が次々に咲いた。焼き鳥を頬張る者、枝豆をつまみながら愚痴をこぼす者。普段は真面目な課長が、意外にも下ネタで笑いを取る姿に、みんなが驚いて声を上げた。
佐藤は、ビールを飲み干しながら周囲の空気を観察していた。職場では堅物に見られがちな自分も、この席ではそれなりに溶け込んでいる。
「佐藤さん、最近どうですか?営業の方は」
村上が笑顔で問いかけてきた。
「まあ、数字は苦戦してるけどな。でも、どうにかなるさ」
「そうですよね。佐藤さんならきっと大丈夫っすよ!」
無邪気な励ましに、佐藤は思わず苦笑した。自分が若い頃も、同じように先輩を元気づけていたのだろうか。そんな記憶がふと蘇る。
宴も半ばになると、酔いが回った人たちの本音が次第に顔を出し始めた。
「いやー、正直さ、上層部は現場のことなんて分かってないよな」
「ほんとそれ。書類ばっか増やして何が効率化だよ」
ぼやき混じりの会話に、相槌と笑いが交わされる。愚痴も、この場では不思議と明るいネタになるのだ。
一方で、若手社員たちは夢を語り始めていた。
「いつか自分の企画で、大きなキャンペーンを動かしたいんです」
「俺は海外の案件に携わってみたいな」
瞳を輝かせる彼らの言葉は、周囲の空気をほんのり熱くさせた。佐藤はそんな姿を見ながら、忘れかけていた自分の志を思い出す。――あの頃、自分も確かに、大きな夢を胸に抱いていたのだ。
やがて宴は二次会へと雪崩れ込む。カラオケボックスの暗い空間に、熱気を帯びた声が響き渡る。音程を外しても、誰も気にしない。むしろ、それが笑いを呼ぶ。マイクが順番に回され、普段は寡黙な同僚が熱唱する姿に、皆が拍手を送った。
時計の針はすでに深夜を回っていた。グラスの数は増え、歌声はかすれ、笑い声も次第に小さくなっていく。
「そろそろお開きにしようか」
部長の言葉に、誰もが名残惜しそうに頷いた。
外に出ると、夜風が心地よく酔いを冷ましてくれる。ネオンの明かりが滲む街は、まだ眠る気配を見せていない。
「佐藤さん、今日楽しかったっすね!」
村上が満足げに笑う。
「ああ。こういう時間も悪くないな」
佐藤も自然と笑顔を返した。
ふと空を見上げると、ビルの隙間から星が瞬いていた。飲み会の時間は確かに過ぎ去ったが、そこに刻まれた笑いや愚痴や夢は、明日への小さな力となって残るのだろう。
佐藤はポケットからスマホを取り出し、最終電車の時刻を確認した。そして、少し足取りを速めながら思った。――また来週も頑張ろう。あの笑い声を思い出しながら。
終電に間に合うように駅へと急ぐ人の群れに混じりながら、佐藤はふと立ち止まった。街のざわめきの中に、先ほどまでの笑い声や歌声がまだ残響のように耳にこびりついている。
飲み会は単なる娯楽の一夜に過ぎないかもしれない。しかし、その場で交わされた言葉や笑顔は、不思議なほど胸の奥に温かさを残していた。
「また来週も頑張ろう」
誰に言うでもなく小さくつぶやき、佐藤は歩き出す。赤提灯の明かりはもう遠ざかり、代わりに駅前の白いネオンが視界を染めた。
疲労と酔いが混じり合う体の奥に、確かに小さな灯火のようなものが宿っている。それは仕事の目標や成果とは違う、人と人とをつなぐ柔らかな力だった。
夜風に吹かれながら、佐藤はホームへと降りていく。電車の到着を知らせるベルが鳴り響き、扉が開く。
あの笑い声を背に、彼は足を踏み入れた。
明日からの日々は決して楽ではないだろう。けれど、今夜のあの時間があれば、もう一歩前に進める。そう信じられる気がした。

