桜が満開を迎える頃、東京の空気は一段と柔らかさを増す。風に乗って舞い散る花びらが街路を淡く染め、人々の心を浮き立たせる。毎年のことながら、この時期になると公園や川沿いの並木には多くの人々が集い、春を祝う宴が始まる。
大学四年の春を迎えた健太にとって、この花見は特別な意味を持っていた。四年間を共にした仲間たちと過ごす最後の春。就職が決まり、それぞれが異なる道を歩み出す前の束の間の時間。彼は、散りゆく桜の下で、言葉にできない感情を抱いていた。
一、集いの始まり
日曜日の午後、上野公園は人であふれていた。色とりどりのシートが敷かれ、笑い声やグラスのぶつかる音が絶え間なく響く。健太たちは朝早くから場所取りをしていた友人・佐伯のおかげで、見事に枝ぶりの良い桜の真下に陣取っていた。
「やっぱり佐伯は頼りになるな」
「徹夜した甲斐があったよ」
佐伯は眠そうな目をこすりながら、缶ビールを片手に笑った。その横で、菜々子が手際よくおにぎりや唐揚げを並べていく。料理好きの彼女が用意した手作り弁当は、毎年の花見の楽しみだった。
「健太、唐揚げ食べる?」
「お、ありがとう。やっぱり菜々子の唐揚げは最強だな」
何気ないやり取りに、健太は少し胸が熱くなる。彼は四年間、密かに菜々子に想いを寄せていた。しかし告白する勇気を持てず、友人としての時間を大切に過ごしてきた。卒業が迫る今も、その気持ちを伝えるべきか迷っていた。
二、桜の下の記憶
午後になると、シートの上はすっかり宴会の場と化していた。缶ビールが空になり、笑い声は一層大きくなる。誰かが持ち込んだスピーカーからは懐かしいキャンパスソングが流れ、仲間たちは自然と歌い出す。
桜の花びらが肩に落ちるたび、健太は時の流れを意識した。入学した頃の不安、サークルでの出会い、試験前の徹夜、合宿での失敗談。すべての記憶が桜と共に蘇る。
「なあ、覚えてるか? 一年のときの夏合宿で、電車乗り遅れた話」
「健太が寝坊して、全員が遅刻しかけたやつ?」
「やめろよ、その話は墓まで持っていけって!」
笑い合う声が夜空へ溶けていく。皆が笑顔でいる今この瞬間が、永遠に続けばいいと健太は願った。だが同時に、桜の花が散るように、この時間もやがて終わるのだと悟っていた。
三、告白の迷い
夕暮れが近づくにつれ、公園は提灯の明かりで彩られた。桜は昼間とは違う妖艶な姿を見せ、空気は少し冷たさを帯びる。人々の喧騒が続く中で、健太は心の中の葛藤と向き合っていた。
――このまま何も言わずに別れてしまうのか。
――それとも、思い切って想いを伝えるべきか。
菜々子は相変わらず笑顔で、友人たちに気配りを欠かさない。彼女の横顔を見つめるたびに、健太の胸は締め付けられた。
「健太、元気ないね。大丈夫?」
「え、ああ……うん。ちょっと飲みすぎたかな」
ごまかすように笑うが、菜々子の瞳がまっすぐに自分を見ているのを感じた。その瞬間、言葉が喉元まで込み上げたが、声にはならなかった。
四、夜桜の下で
夜になり、人々のざわめきはさらに熱を帯びた。カラオケのような大声で歌う集団、手をつなぎ歩くカップル、泣き笑いする卒業生たち。春の夜は誰もが少しだけ大胆になる。
健太は缶ビールを置き、立ち上がった。
「ちょっと散歩してくる」
菜々子も立ち上がる。
「私も行く」
二人は自然と並んで歩き出した。川沿いの桜並木はライトアップされ、花びらが川面に落ちて流れていく。酔いの回った友人たちの声が遠ざかり、夜の静けさが二人を包んだ。
「四年間、あっという間だったね」
「うん。本当に……一瞬だった気がする」
菜々子の声には、どこか寂しさが混じっていた。健太は思い切って言葉を紡ぐ。
「菜々子、俺……ずっと、君のことが好きだった」
吐き出した瞬間、心臓が跳ねた。菜々子は驚いた表情で立ち止まり、しばらく沈黙した。夜風が二人の間を吹き抜け、桜の花びらが頬に触れる。
やがて、彼女は小さく笑った。
「知ってたよ。……でも、ありがとう。私もね、健太のこと、特別だと思ってた」
健太は言葉を失った。ただ、菜々子の手がそっと自分の手に重なるのを感じた。それだけで十分だった。
五、春の約束
戻ると、仲間たちは酔い潰れてシートに横たわっていた。佐伯が「おかえり」とだけ呟き、再び眠り込む。夜は更け、桜は散り続ける。
菜々子と健太は並んで座り、最後の時間を静かに味わった。
「この先、いろんなことがあると思うけど……また桜の下で会おうね」
「うん、絶対に」
二人は小さく約束を交わした。桜の花びらがその言葉を包み込むように舞い、夜空へと消えていった。
健太は思った。この春は終わりではなく、新しい始まりなのだと。
結末
夜桜の下、健太はついに胸に秘めていた想いを菜々子に伝える。
一瞬の沈黙ののち、菜々子は「知ってたよ」と柔らかく微笑み、そして彼女自身の気持ちを明かした。二人の手が自然と重なり合い、春の夜風と舞い散る花びらがその瞬間を祝福する。
仲間たちが酔いつぶれ眠りにつく中、二人はシートの端で肩を寄せ合い、静かに言葉を交わす。
「また桜の下で会おうね」
「うん、絶対に」
散りゆく桜は儚さを象徴していたが、健太の胸には不思議な確信があった。これは別れの春ではなく、新しい季節の始まり。桜がまた巡り咲く頃、二人はきっと笑顔で再会できる。
そう信じながら、健太は夜空に浮かぶ桜を見上げた。
花びらは静かに舞い落ち、二人の未来を照らすようにきらめいていた。
――春は終わらない。これからも続いていくのだ。

