夕暮れにほどける心

未分類

序章

秋の訪れは、音よりも匂いによって知るものだと、真理子はいつも思っていた。
朝、窓を開けると肌に触れる風が一段と乾き、土と落ち葉が混じり合った香りが部屋の奥にまで忍び込んでくる。セミの声が遠ざかり、代わりにスズムシやコオロギの涼やかな音色が夜の支配者となる。季節は確かに夏を終え、秋へと歩みを進めていた。

今年の秋は、彼女にとって少し特別な意味を持っていた。四十歳を迎え、仕事も家庭もある程度の落ち着きを見せ始めた頃、ふと立ち止まり、自分のこれまでとこれからを見つめ直す時期に来ているように思えたのだ。

真理子は、休日になるとよく郊外の公園を歩いた。
そこは彼女が学生時代、友人たちと語り合い、恋人と手をつないで歩いた懐かしい場所でもあった。赤や黄に染まりゆく木々の下を歩けば、足音が落ち葉を踏むたびにかさりと鳴り、まるで季節が囁きかけてくるかのようだった。

「同じ場所なのに、どうしてこんなに違って見えるんだろう」
そう呟きながら空を見上げる。枝の隙間から差し込む陽光は、夏の鋭さを失い、柔らかく黄金色に変わっていた。

ある日、ベンチに腰を下ろして休んでいると、隣に見覚えのある男性が座った。
「もしかして……真理子?」
振り向けば、そこにいたのは大学時代の友人、俊介だった。二十年近く会っていなかったのに、笑ったときの目元の皺で一瞬にして記憶が蘇った。

「俊介? 本当に?」
驚きと懐かしさが混じった声をあげると、彼も頷いた。

再会の偶然に二人は笑い、昔話に花を咲かせた。あの頃の夢、若さゆえの衝突、そして互いの今。俊介は会社を辞め、地元で小さな古書店を始めたという。
「本なんて売れない時代だって笑われるけどさ、秋になると人って本を読みたくなるんだよ。静かで、深くて、ちょっと切ない季節だからかな」

その言葉に、真理子は胸の奥がじんと温かくなるのを覚えた。

日が落ちるのが早くなり、夕暮れの公園はどこか哀愁を帯びる。
二人は歩きながら、今の自分に欠けているものについて語り合った。

「私は……日々の繰り返しに安心してるけど、時々、置き去りにされたような気持ちになるの」
真理子は、言葉を選びながら打ち明けた。

俊介は少し考え、落ち葉を拾い上げて言った。
「秋の葉っぱってさ、散るからこそきれいなんだよな。終わりがあるから、輝くんだ。俺たちの時間もそうかもしれない」

その瞬間、真理子はなぜか涙が溢れそうになった。哀しさではなく、季節と共に自分も変化していいのだと、心が解き放たれるような感覚だった。

数週間後、真理子は俊介の古書店を訪れた。木の匂いと紙の香りが混じる空間は、まるで秋そのものを閉じ込めたような場所だった。

「いらっしゃい」
笑顔で迎える俊介の姿に、真理子は胸の奥に小さな灯りを見た気がした。

店内を巡るうち、一冊の詩集が目にとまった。タイトルは『秋の記憶』。ページをめくると、季節の移ろいと人の心を重ねた詩が並んでいた。

——秋は終わりではなく、新しい始まり。

その一文に、真理子は強く惹かれた。彼女の中で、秋が単なる寂しさの象徴ではなく、人生をもう一度見つめ直すきっかけに変わっていくのを感じた。

終章

夜、帰り道。
冷たい風が頬を撫で、遠くで祭囃子の音が響く。街は紅葉に包まれ、屋台からは焼き芋の甘い香りが漂っていた。

真理子は歩きながら思った。
——秋は人生の縮図のようだ。色づき、散り、また土に還り、新しい芽吹きを準備する。

彼女はポケットに詩集を忍ばせ、静かに微笑んだ。
この季節を恐れずに受け入れ、変わりゆく自分を大切にしていこう。そう思える秋が、今ここにあった。

数日後、真理子は再び古書店を訪れた。店の窓際には色づいた葉を挿した小さな花瓶が飾られていて、外の景色と同じように赤や橙が淡く光を放っていた。

俊介は店の奥で帳簿をつけていたが、彼女の姿を見つけると手を止め、ゆっくりと歩み寄った。
「また来てくれたんだな」
「ええ、この場所……なんだか落ち着くの」

二人は窓際の席に座り、あたたかい紅茶を飲みながら、今度は未来の話をした。夢や計画というほど大げさなものではない。ただ「これからの時間をどう過ごしたいか」を、静かに言葉にしていった。

外では風が吹き、街路樹の葉が一斉に舞い上がった。舞い散る葉の中に、真理子は自分の姿を重ねる。落ち葉は決して無駄ではなく、大地に還り、次の春を支える力になる。

「秋って、終わりじゃないんだね」
真理子の言葉に、俊介は微笑みながら頷いた。
「そう。次につながる季節だ」

窓の外、夕暮れの空が黄金から茜色に変わっていく。
その光を浴びながら、真理子は決心した。これからは季節に身を任せ、自分もまた新しく芽吹いていこうと。

本を閉じた彼女の心には、もう迷いはなかった。
秋は寂しさではなく、再生の約束を運んでくれる季節。そう信じられるだけで、未来は温かい色に染まっていくのだった。